今日で震災から9ヵ月。
『ファインダー越しの3.11』を読んだ。
一番しっくりしたなーという感想。
未曾有の大震災とか、死者○○人、行方不明者○○人、とかばかり聞いていてもそれは全然実態を見てることにはならないと思う。そこには、ひとりひとりのストーリー(と言ったら語弊があるかもしれないけど)があるはずなのにいっしょくたにされてそれが埋もれていってる。
でもこの本では、そのひとつひとつのストーリーに耳を傾けようとしてるし(ほんとにそのごく一部に限られはするけど)、そこでの筆者の葛藤もありのままに書いてくれてるから、読んでよかった。
それで、あたしも感じたままを残さなきゃと思ったので、震災のあと初めて荒浜に行った時のことを書く!
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震災があって、ずっと地元に帰りたいと思ってたけど、やっと帰れたのはGWの時。
もちろん、経済的なこととかもあったけど、最初のうちは、やっぱり自分が行っても何の役に立てるのか分からなかったし、友人や知人が被災してる中でボランティアなんて形で入っていくことに抵抗があったりどんなふうに接していいかも分からなくてこわかったから帰れなかった。
名古屋から新幹線乗り継いだけど(この2日位前にやっと東北新幹線が開通)、福島に入ると地震で崩れた瓦屋根を抑えるために青のビニールシートがかかった家が増え始めた。
けど、仙台の街並みはやっぱりそんなに変化は見えなかった。
ずっと地震に備えてたのもあると思う。ずっと宮城県沖地震が来るって言われ続けてたし。震度5、6とか結構きてたし。実際私の通った中学も高校もちょっと前に耐震工事とか建て替えをした。(おかげで高校最後の年はプレハブだった。)
それでちょうど名取過ぎた当たりから、新幹線であたしの近くに乗ってたいかにもボランティアしにきました!みたいなバックパックしょって意気揚々としたおじさんが窓の外をiPhoneで撮りまくっているのを見てすごい不快な気持ちになった。あたしたちの街に土足で入るなと。(そんなであたしはしばらくボランティア(特にボランティアに行ってきたと声を大にする学生とか)の存在がすっごく嫌だった、現地のニーズは全く無視してただの感情論だったけど)
それで駅につくと、両親が車で迎えにきてくれてた。
そして、家の流されちゃった親戚へのお見舞いにあたしもその足でついて行った。
最初親に『荒浜に行きたい』っていったとき、『どうして?』って言われた。
なんて答えたかちょっと曖昧だけど、とにかく『いかなきゃだめなの』って答えた気がする。
結局親は連れていってくれることになったけど、聞かれたとき何だかドキッとした。
こんなこと言ったらダメなのかもしれないけど、あたしは地震のとき自分が仙台にいれなかったことをちょっと悔しく思ってた。震災からずっと、被害者意識?当事者意識みたいなのがすっごくあって、そばにいたいって思うのに、でもあたしが実際に地震を経験したわけでも津波の被害にあったわけでもないのに。だから、周りに自分の気持ちをなかなか分かってもらえないと思ったし、こんな風に当事者意識をもっちゃいけないのかなとかも思った。
でもとにかく、いかなきゃ行けないと思ってた。
それで、まず親戚のとこにお見舞いに行った。おじさんのところは幸いにも、すでに仮屋に住んでいた。けど、はっきりいってとっても惨めに思われた。あんなに立派なおうちに住んでいたのに、いまは平屋で周りの大きな家に隠れるようにして建ってるおうちに肩寄せ合って住んでいた。着のみ着のまま逃げたから、ほんとに全部なくしてた。父は震災後にも何度か会いに行ってはいたけど、まだお互い気を遣って言葉少なに玄関先ですぐにおいとました。
そのあと、荒浜へ。
母もこの時が初めて。名取の友達からも「東部道路を越えたら地獄」と言われていた。本当にその通りだった。
道路を越える手前に広がる田んぼのあぜ道の電信柱は傾いたまんまで、少し瓦礫が残されていたくらい。けど、東部道路を越えたとたん、瓦礫の山が永遠と続く色彩のない光景がずっと続いてた。母が「えぇ?!」って声にならないヒステリックな声を出したからそれで私も声がでなくなった。いつも気丈な母が怯んだのを目の前にしてわたしも気持ちが一気に不安定になった。
仙台平野には、海に平行に東部道路ってのが走ってて、それが数メートルの土手みたいに少し高くなってる。だから、そこにはい上がって助かった人も多くいたらしい。
すぐ、警察の検問があって、親戚の家(のあと)に行きますって言うと通してくれた。親が言うには、ちょうどその頃、津波の被害を見に野次馬みたいな人たちがそこへ行って写真を撮ったりしていることへの批判が新聞の投書欄に出たりしていたみたいだった。もちろん、防犯の意味もあるし。
そっからはただ嘘でしょと思うばっかりだった。
ほんとにこれはいくらテレビで映像見たって新聞で写真見たって話聞いたって分かりっこないって思った。文章にしたら薄っぺらになってしまいそうで。重機はかろうじて入ってるから道っぽいのはあるけど、家なんて認められるものは一切なくって、瓦礫が高く積み上げられてて無機質で冷たくて、それに圧倒された。その日は天気が悪かったのもあるのか、モノクロの世界みたいに見えた。
荒浜小学校のグラウンドにちょっとだけ駐車スペースがあったから車を止めて降りた。津波で車を流された人も多いから、家に戻ってくる人たちを送りにきたタクシーのおじさんがじっと運転席で待ってた。遮るものもないから風が強く吹いてて、5月なのにものすごく寒かった。
そこから泥の残る道?を歩いておじさんの家を探した(私の親戚はあの一帯に3家族くらい住んでいて、仮屋に住んでる人とはまた別の人のおうち)。かろうじて道はあるんだけど、歩いても歩いてもおうちが見つからなくって、もうほんとに場所が全然わからなかった。目印も何もなくて。どこも塀が30~50cmくらいの高さで残ってはいても、そこに流れ着いてるものも、どこから来たものだかもわからないし。結局この辺かなって手を合わせて帰ることにした。
私は、現地の様子を友達にも伝えたかったし、少しでも分かって欲しかったし、知らない人の写真より私のとったものなら近く感じてくれるかなと思ってカメラも持って行ってた。けど、カメラを出すこともできなかった。まだ、家に残された何かを探しにくる人だっていたし、遠くで重機を動かす人の目も私に向いてる気がした。部外者がここでなにしてるの?って。あと、こわいって思いもあったのかも知れない。
荒浜は、3月11日の夜の時点で200~300の遺体があがったと報道されたところだった。あたしはそれを聞いたとき思わず泣き崩れた。その時あたしの祖父もラジオを聞いて親類みんな絶望的だろうと覚悟したとあとから聞いた。
でも、そんな報道がされていながらも、なかなか遺体の引き上げが進まなかった。全然ニュースにあがらなかった。平野だったし水がなかなか引かず、しばらく人が入ってける状況じゃなかったから。
そんな状況だったから、あたしが荒浜に行った時ももしかしたらまだここに助けを待ってる人が居るんじゃないかと思ったから写真をとれなかったんだと思う。木にひっかかった衣服を見るだけでも思わずぞくってしてしまってた。そのくらい、全てが生々しかった。
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そのあと、このことを伝えたいと思って何度か言葉にしてみたけど、伝わってるのか分からない。そして、わたしも何かしたいと思いつつも、泥かきなどのボランティアも考えれば考えるほどどう接していいのか分からなくてわたしのやるべき手段じゃないとか理由をつけてたいして行動できずに今まで来てしまった。
けど、やっと春に仙台に長く帰ることにしたので、改めて自分の出来ること考えてみようと思ってる。行く前から自分勝手に手段を選ばず出来ることをとにかくやってみるか、やっぱり納得いく手段を探すのかまだわからないけど、祖父や友人とももっと話して考えたいなと思う。まあ、先は長いんだ。
どうまとめていいのかわからないけど、うん、分からない笑
でも、誰かが読んでくれて何か感じれたなら書いてよかった。
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