2014/01/19

ミンダナオ、初上陸!



またまた日が空いてしまいました。


もうちょっと前の話になりますが、学校休みの週末を使ってミンダナオ島に行ってきました。きっかけは3つくらい。



①多分、山根先生の東南アジア研究の中でほぼ唯一記憶に残っているビデオがミンダナオのムスリムが多く住む貧困地域の少年を追ったものだった。そのビデオの中で男の子がミンダナオの歌歌ってて、それがすごく耳に残ってたのです。


②そして、あたしがここへ来る前フィリピンと自分の接点を考えた時、中学でフィピリンのバナナ園の話を聞いたのがあたしの国際協力への関心の始まりだったってことに改めて思い出した。日本人が彼らの土地をつぶしてプランテーションをどんどん広げたから、日本でおいしいバナナが食べれるんだよって。


③あと、こっち来てからも、先生たちがあからさまに“ムスリムは嫌いだ”っていうことにすごく違和感を感じて、セブから出たこともないのにって思ったり、とにかく自分で行かなきゃと思って。


そんなのと合わせて、機会にも恵まれたのでミンダナオ島に初上陸することになった訳です。と、いっても、まあ安全とされるダバオに滞在でしたが。また来るつもり、何たってたった3日の滞在を1週間前に急遽決めたもんで笑


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とりあえず、ダバオ、好き笑


セブなんかと比べられないくらい平和。ものすごく平和。人は穏やかだし、道もそんな混んでないし、比較的きれいに整備されてるし、タクシーにぼられることとかほぼない。


まあ油断しすぎちゃいけないのだけど、ほんとに変な緊張感とか不信感とか警戒心とかを人に抱かず自由に町を見て回れた嬉しさ。感動w


ただふらふら歩いただけなのに、ものすごい幸せだった。


日本政府はこんな平和なとこをマニラより危険だと言ってる訳ですよ。おばかちゃんですよ。





で、そんな幸せ噛み締めながら、初日の夕方にはダバオオリエンタルという地域にある“HOUSE OF JOY”という孤児院に向かいました。日本人が建てた施設なのだけど、フィリピン政府の認可ももらっている施設。下は4歳から上は15、6歳くらいの子どもたち20人弱が一緒に暮らしてる。(学校は近所の学校に通ってる。)


で、ここの子どもたちが可愛いこと。すっごい可愛い。みんなビジターが来るの慣れてて、まあ自由に遊んでくれるし、つこっみどころありすぎるしね、ずっと笑って過ごしてたなー。2泊したので、朝に一緒に教会行って(カトリックの礼拝は初めて!)、昼間は一緒に近所の海行ったり。のんびりで、ほんまに最高な時間の過ごし方やった。





そして、スタッフの澤村さんがおもろい人で。いろいろ教えてくれたし、いっぱい聞いてくれたし。そして、竹サックスに出会わせてくれたし。この出会いはでかい。子どもたちも楽器(澤村さんの手作り)好きで。





彼らの生い立ちを聞いたりもしたけど、やっぱり、子どもたち自身が新しい仲間が来る時はとにかく明るく迎えるんだって。彼らの気持ちを分かってあげれるのは彼ら自身なんだよね。中には1年近く、一度も笑わなかった子もいたって。けど、初めてその子が笑った時、みんなでお祝いしたんだって。その雰囲気がすごいなと感じた。周りの人間がどうこう言うんじゃなく、彼らでつくりだしたその空間がすごく素敵だなと思いました。





そして、あっという間に時間が過ぎて、セブへ帰ってきました。


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この旅で感じたことはいっぱいだけどミンダナオに行く目的になった二つのことだけちょっとまとめ。





  宗教観


学校の先生たちが行ったこともない地域をひたすら危ないって批判して、ムスリムを露骨に批判するのはおかしいと思ってて、ダバオに行ってもそれは変わらなかった。ダバオはセブよりはムスリムが多くて、こことは違って一緒に学校に通ったり商売をしてるのも自然に見えた。けど、やっぱりほかのムスリムが集中する地域とは違うんだよね。そして、セブに帰っていろんな先生に話し聞いてて、やっぱり私たちの耳に入らないような、国際ニュースにならないような事件や出来事も先生たちは小さい頃から目にしたり聞かされてきている訳で。ずっとそうやってインプットされてきたんだよな、と思ったらそんな客観視できんわなって思い始めた最近。にしても、って時はありますが。まだまだ到底理解しきれぬ。もっといろんな意見を聞きたい。





  プランテーション


実際、日本とかがもたらしたプランテーションは彼らの生活を大きく変えてしまったのだと思う。けど澤村さんとも話してて、プランテーションで働く人たちなんかが必ずしも不幸かって聞かれたら、決めつけれないよねって。だって、彼らは100人孫がいたりして、それを自慢げに話してくれたりする。それって、経済的なとこから見たら豊かと言えなくても、充分一つの幸せの体現に成得るじゃないかと。そして、親類に日系がいるとか結構多くてかなり親日な印象を持った(私が出会って話した印象からだと)!


にしても、ダバオ市からダバオオリエンタルに移動する道の両脇はずーっとプランテーションだった。飛行機から見ても、きれいに四角く区切られた緑がはっきり分かる。これってすごく異様な光景に見えた。フルーツの楽園と言われるダバオで、確かに気候とかは適しているのだろうけど、そういう背景があるんだってことは知っとくべきだと思いました。プランテーションはこれからどうなっていくのかな。








たらたら書いちゃいましたが、終わり。









私が休学した理由。


タイトルは別に某ドラマに便乗したんじゃないですw
けど、誰かが書いてた理由シリーズあたしもやろかな!

さ、とうとう明日、フィリピンに出発します。

4月下旬?7月上旬:セブで語学留学
8月-10月中旬:バックパックで東南アジア+インドまわる
10月中旬-12月下旬?:インド、カンボジアでインターン

な、予定。
ほんとなら、今頃就活してる予定だったのですが、まあ休学を決めてこんなふらふらすることになったわけです笑

その理由とか、目的をつねに意識して実践できるよう、ここにも書きたいと思います!


目標から言ったら
“全力になる“ということ!

そもそも、去年の10月くらいまでは今年就活するつもりだったのですね。だし、自己分析とか地味にやってたんだけど、夏のインターン通してもう一度自分のやりたいこと考えたり、自分の思い描いていた将来像へのGAPがかなり開くまで放置してきてしまったことを思ったら、いま就活の前にもう一つステップを踏まなくちゃと思ったのです。
これがそもそもの理由ね。

で、”全力になる“って、どういうことなのか。
上に自分の将来像って書いたけど、それは
・ 言語能力の向上だったり
・ リミッターを外してクレイジーに生きることだったり
・ 常に新しいことに挑戦し続けて、変化し続ける
とかいうもの。

で、これを実現するのに一番必要なのって“全力になること”だと思ったのです!

これも以前に書いたけど、岸恵子さんが言ってたもので
『私の人生は、芸一筋とか継続は力なりっていう生き方ではないけど、非日常に惹かれるから、そこに飛び込まずにはいられないから、その一つ一つに全力で取り組んできた。全力で取り組んできたから、これが自分の人生だと胸はって言える』って。

私もこれにすごく共感した。けど、一番大事な“全力で”ってのができてない。でも、ただただあちこち手を出すだけじゃ、ほんとにふらふらしてる何もできないやつで終わりなんだよね。

挑戦することに価値はあるけど、力抜いてたんじゃ元も子もないし、もったいないし。

全力で取り組むことで、新しい挑戦に行くことができて、確かに変化していくことができるはずなの。

だから、“全力になる”っていうのは、今のあたしの最重要で最大の課題。


と、言う訳で、私のこと厳しく見守ってください笑

行ってきまーす。

震災のこと(2)


震災のことに関して。
休学を決めて、APUでのテストが終わってすぐに実家のある仙台に帰ってきました。

大好きな仙台で、家族と一緒に過ごせる。
認知症のおばあちゃんの介護、ちょっとでも手助けしたい。
休学中の費用を稼ぐ。
語学、知識のインプットー休学の準備期間
ずっと長く帰れずにいた、”被災地“としての仙台と関わりたい。

こんな目標もあった。
特に、5番目の震災に関して。
京都にいるときも、大分に行っても、やっぱり私の気持ちは誰もわかってくれない、というか分かりっこないだろうって思い続けてた。
どちらにいても、周りとの温度差がいつも気に障る感じ。

前にも書いたけど、あたしは直接的に被害を受けた当事者じゃないし、だから被災地に入ってくれる人たちにああだこうだ言える立場じゃないかも知れないけど、やっぱり私の地元でもあって、中途半端で自分勝手な当事者意識がある。

だから、そういうよくわからん気持ちがありつつも、何かしなきゃ、何かしたいって思いはあった。(わたしの周りに、自分よりよっぽど足を運んでくれている友人や知人がいて、焦りというか変な悔しさみたいなのがあったのかもしれない。これまた、ほんっとに自分勝手だけど。)

それで、仙台帰って、祖父の実家のあった荒浜地区でがれき撤去や泥だし含めて農業支援やってる団体で数回だけお手伝いさせてもらいました。

けどさ、毎回、農家の人によくしてもらってそういう出会いも嬉しかったのだけど、そこは私の経験を共有するための空間ではないわけで。共有されるべきは、農家の人たちはじめ、当事者たちであって、あたしのこんな感情を聞いてもらう場所でもなんでもなくて。

あたしは何しにここに来ようと思ってたんだか、本当に勝手で、失礼だったと思って。

だから、4月に入って行かなくなってしまった。
逃げたのかな。
結局、純粋に何かしたいって言うんじゃなかったんだよね。
ただ、自分の気持ちを誰かに分かってほしいって思いだけ。

今まで、自分の感情も事実だし、誰かに聞いてもらいたいってもいいのかなって思ってたけど、やっぱり違うのかもとようやく思い始めた。

全部自分の中に閉じ込めちゃうってんじゃないけど、やっぱり、私自身がまず声を聞こうとしないことには、相手だって私の話なんか聞けないよね。

“寄り添う”ことの実践は本当に困難だとは思うけど、
ほんとに努力しようとしてなかった。

これから、ちょっとの間、仙台から離れるけれど、今度こそ、もっともっと多くの声に耳を傾けられるように、自分から努力したいと思います。うん。



これから。



今年はじめて書きます。
もう2月になっちゃったけど、
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!

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さあ、あと3日で別府を去ります。
すーっごくあっという間だったAPU国内留学。
やりたいこと考えてたんだけども、いろいろ残しちゃったかなという思いもあります。
だから、これからのためにこの一年をちょっとまとめて、今年のプランを書いとこうと思う!

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去年の1、2月はAPU行きがやっと決まってウキウキしてたんだけど、3月に震災がありまして、家族と連絡取れなくなったり、頭ぐちゃぐちゃになりまして、「あんたはこっちの心配しないで引越し準備しろ」とかドラマみたいなこと親に言われたり、何だかよくわからないことになりました。

まあ、幸い実家は無事だったわけでAPUに来れたわけですけど。
本当に周りの人には感謝しています。

けどさ、びっくりしたよね、ほんと何もなくて(笑)

全部こっちで買い揃えようと思ってたから、包丁も鍋もなくて最初の2週間くらい食生活終わってました。

けどまあ、何とか生活しつつもまた4月7日にあの地震。
友だちが連絡くれたから、すぐに親に連絡とれたけど、心配でキッチンのTVでニュースみてたら、あたしの横でフロアメイトが電話で「私、最近ちょーモテ期」的話をしだして、びっくりした。

何か、関西にいたときもなんだけど、この差はなんなんだと。やっぱ、とおくのとおくのお話なんですねって。

だから、APU生活の始まりは、こんな感じで、やりたいことうきうき考えてた心構えがぶっ飛んで、被害者意識と敵対心丸出しのブラックにへいで迎えたわけです。

けど、
・タイで開発支援してるサークル入ったり
・ミャンマーweekでキャンドルダンスしてめーちゃくちゃ楽しかったり
・SVAでのインターンの面接受けたり

前期は、やっと楽しくなってきた頃おわった。
そして、夏休みのタイでのインターン。

いろんな人に出会えてすごくすごく素敵な時間だった。
けど、準備不足とか逃げとか、自分への甘さを実感することになって。

後期は、ずーっと、これからのこと悩み続けて全然決められずにいた。とりあえず就活(SPIとか自己分析とか)ちょっとかじったりしてもピンとこなくて、むしろ、どうしても大学入って以来ずっと持ってきたコンプレックスに戻ってきてしまって。

そして、ぐちゃぐちゃしながらも、今年の就活はやめて、休学という選択にいたったわけです。

休学中は、コンプレックスぶち壊して、コリコリの脳みそもほぐして、追い込んで追い込んで追い込んでとことん自分と向き合う時間にしたい。プランは設計途中。


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総じて、APUでは自分のキャリアのことを素直に考えられるようになったかなって思う。立命にいるとき、くだらないプライドとか周りの目とか気にして当たり前のように選択肢から外しちゃってたこと、APUでは何でもない顔して「それが俺の夢」みたいに語ってたり、実際にそれに向かってる人たち見たら、何か自分のほんとにやりたいこと真剣に考えるべきだったって思った。

そして、準備の大切さも痛感した。APU生活の始まりも、インターンも、そもそも大学入るときも、自分で明確なビジョンとかシュミレーションとか全く十分に出来てなかった。だから、これからは、絶対に準備をしっかりして全力で臨みたい。だし、1回生とか、これから大学来る子にもそれに気づいてくれたらとも思う。

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APUでは、いろんな刺激的な出会いがいっぱいあったよ。
みんなに出会えてよかった。
APUという人種と交流できてほんとよかった(笑)

次は社会のフィールドで勝負しませう!(勝負?)
でもkeep in touchね。

今日はこれでおしまい。(唐突?)
あでゅー。



にへ



愛、さんさんとー。



とか、歌ってますが
今日は2011年の仕事納めでした。
明日は2012年の仕事はじめです。
10時間労働、わっしょい。

いろいろ書きたかったのにかけずに来ちゃったな。。。
ま、年越えてもちゃんと書くよー。

今年はいろいろな出会いがあったから、来年はもっといろんな出会いから自分と向き合う時間をたっぷりじっくりとろう。

でも、何かにつけて時間を区切ろうとするといつも躓くからあんま変な気合いれんとく(笑)
今日は12時まで起きてられるか不安なくらいおなかぱんぱん。年越しそうめんのせいで。

ふう、テレビ番組は「がんばろう」とか「東北に向けて」とか連発しまくってますね。お祭りのおまけみたいでちょっといややなんてココで愚痴るなって話ですが、しょうがないよね。

たまには何もしない大晦日もいっか。

愚痴みたいな日記(笑)

おやすみなさーい。


初めて“被災地”に行った時のこと


今日で震災から9ヵ月。
『ファインダー越しの3.11』を読んだ。
一番しっくりしたなーという感想。

未曾有の大震災とか、死者○○人、行方不明者○○人、とかばかり聞いていてもそれは全然実態を見てることにはならないと思う。そこには、ひとりひとりのストーリー(と言ったら語弊があるかもしれないけど)があるはずなのにいっしょくたにされてそれが埋もれていってる。

でもこの本では、そのひとつひとつのストーリーに耳を傾けようとしてるし(ほんとにそのごく一部に限られはするけど)、そこでの筆者の葛藤もありのままに書いてくれてるから、読んでよかった。

それで、あたしも感じたままを残さなきゃと思ったので、震災のあと初めて荒浜に行った時のことを書く!

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震災があって、ずっと地元に帰りたいと思ってたけど、やっと帰れたのはGWの時。
もちろん、経済的なこととかもあったけど、最初のうちは、やっぱり自分が行っても何の役に立てるのか分からなかったし、友人や知人が被災してる中でボランティアなんて形で入っていくことに抵抗があったりどんなふうに接していいかも分からなくてこわかったから帰れなかった。

名古屋から新幹線乗り継いだけど(この2日位前にやっと東北新幹線が開通)、福島に入ると地震で崩れた瓦屋根を抑えるために青のビニールシートがかかった家が増え始めた。

けど、仙台の街並みはやっぱりそんなに変化は見えなかった。
ずっと地震に備えてたのもあると思う。ずっと宮城県沖地震が来るって言われ続けてたし。震度5、6とか結構きてたし。実際私の通った中学も高校もちょっと前に耐震工事とか建て替えをした。(おかげで高校最後の年はプレハブだった。)

それでちょうど名取過ぎた当たりから、新幹線であたしの近くに乗ってたいかにもボランティアしにきました!みたいなバックパックしょって意気揚々としたおじさんが窓の外をiPhoneで撮りまくっているのを見てすごい不快な気持ちになった。あたしたちの街に土足で入るなと。(そんなであたしはしばらくボランティア(特にボランティアに行ってきたと声を大にする学生とか)の存在がすっごく嫌だった、現地のニーズは全く無視してただの感情論だったけど)

それで駅につくと、両親が車で迎えにきてくれてた。
そして、家の流されちゃった親戚へのお見舞いにあたしもその足でついて行った。
最初親に『荒浜に行きたい』っていったとき、『どうして?』って言われた。
なんて答えたかちょっと曖昧だけど、とにかく『いかなきゃだめなの』って答えた気がする。
結局親は連れていってくれることになったけど、聞かれたとき何だかドキッとした。

こんなこと言ったらダメなのかもしれないけど、あたしは地震のとき自分が仙台にいれなかったことをちょっと悔しく思ってた。震災からずっと、被害者意識?当事者意識みたいなのがすっごくあって、そばにいたいって思うのに、でもあたしが実際に地震を経験したわけでも津波の被害にあったわけでもないのに。だから、周りに自分の気持ちをなかなか分かってもらえないと思ったし、こんな風に当事者意識をもっちゃいけないのかなとかも思った。

でもとにかく、いかなきゃ行けないと思ってた。

それで、まず親戚のとこにお見舞いに行った。おじさんのところは幸いにも、すでに仮屋に住んでいた。けど、はっきりいってとっても惨めに思われた。あんなに立派なおうちに住んでいたのに、いまは平屋で周りの大きな家に隠れるようにして建ってるおうちに肩寄せ合って住んでいた。着のみ着のまま逃げたから、ほんとに全部なくしてた。父は震災後にも何度か会いに行ってはいたけど、まだお互い気を遣って言葉少なに玄関先ですぐにおいとました。

そのあと、荒浜へ。
母もこの時が初めて。名取の友達からも「東部道路を越えたら地獄」と言われていた。本当にその通りだった。
道路を越える手前に広がる田んぼのあぜ道の電信柱は傾いたまんまで、少し瓦礫が残されていたくらい。けど、東部道路を越えたとたん、瓦礫の山が永遠と続く色彩のない光景がずっと続いてた。母が「えぇ?!」って声にならないヒステリックな声を出したからそれで私も声がでなくなった。いつも気丈な母が怯んだのを目の前にしてわたしも気持ちが一気に不安定になった。

仙台平野には、海に平行に東部道路ってのが走ってて、それが数メートルの土手みたいに少し高くなってる。だから、そこにはい上がって助かった人も多くいたらしい。

すぐ、警察の検問があって、親戚の家(のあと)に行きますって言うと通してくれた。親が言うには、ちょうどその頃、津波の被害を見に野次馬みたいな人たちがそこへ行って写真を撮ったりしていることへの批判が新聞の投書欄に出たりしていたみたいだった。もちろん、防犯の意味もあるし。

そっからはただ嘘でしょと思うばっかりだった。
ほんとにこれはいくらテレビで映像見たって新聞で写真見たって話聞いたって分かりっこないって思った。文章にしたら薄っぺらになってしまいそうで。重機はかろうじて入ってるから道っぽいのはあるけど、家なんて認められるものは一切なくって、瓦礫が高く積み上げられてて無機質で冷たくて、それに圧倒された。その日は天気が悪かったのもあるのか、モノクロの世界みたいに見えた。

荒浜小学校のグラウンドにちょっとだけ駐車スペースがあったから車を止めて降りた。津波で車を流された人も多いから、家に戻ってくる人たちを送りにきたタクシーのおじさんがじっと運転席で待ってた。遮るものもないから風が強く吹いてて、5月なのにものすごく寒かった。

そこから泥の残る道?を歩いておじさんの家を探した(私の親戚はあの一帯に3家族くらい住んでいて、仮屋に住んでる人とはまた別の人のおうち)。かろうじて道はあるんだけど、歩いても歩いてもおうちが見つからなくって、もうほんとに場所が全然わからなかった。目印も何もなくて。どこも塀が30~50cmくらいの高さで残ってはいても、そこに流れ着いてるものも、どこから来たものだかもわからないし。結局この辺かなって手を合わせて帰ることにした。

私は、現地の様子を友達にも伝えたかったし、少しでも分かって欲しかったし、知らない人の写真より私のとったものなら近く感じてくれるかなと思ってカメラも持って行ってた。けど、カメラを出すこともできなかった。まだ、家に残された何かを探しにくる人だっていたし、遠くで重機を動かす人の目も私に向いてる気がした。部外者がここでなにしてるの?って。あと、こわいって思いもあったのかも知れない。

荒浜は、3月11日の夜の時点で200~300の遺体があがったと報道されたところだった。あたしはそれを聞いたとき思わず泣き崩れた。その時あたしの祖父もラジオを聞いて親類みんな絶望的だろうと覚悟したとあとから聞いた。

でも、そんな報道がされていながらも、なかなか遺体の引き上げが進まなかった。全然ニュースにあがらなかった。平野だったし水がなかなか引かず、しばらく人が入ってける状況じゃなかったから。

そんな状況だったから、あたしが荒浜に行った時ももしかしたらまだここに助けを待ってる人が居るんじゃないかと思ったから写真をとれなかったんだと思う。木にひっかかった衣服を見るだけでも思わずぞくってしてしまってた。そのくらい、全てが生々しかった。


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そのあと、このことを伝えたいと思って何度か言葉にしてみたけど、伝わってるのか分からない。そして、わたしも何かしたいと思いつつも、泥かきなどのボランティアも考えれば考えるほどどう接していいのか分からなくてわたしのやるべき手段じゃないとか理由をつけてたいして行動できずに今まで来てしまった。

けど、やっと春に仙台に長く帰ることにしたので、改めて自分の出来ること考えてみようと思ってる。行く前から自分勝手に手段を選ばず出来ることをとにかくやってみるか、やっぱり納得いく手段を探すのかまだわからないけど、祖父や友人とももっと話して考えたいなと思う。まあ、先は長いんだ。

どうまとめていいのかわからないけど、うん、分からない笑
でも、誰かが読んでくれて何か感じれたなら書いてよかった。



「卵を割らないとオムレツは作れない」



はろーーーーー!
またまた1ヶ月以上空いちゃいました。
キャンプのこと書きたいのだけど、
一個前の日記の状態から大して進めずにいました。

でもちょっぴり兆しが!

先日の朝日新聞の記事に岸恵子さんがこんなこと書いてました。

・フランスには「卵を割らないとオムレツは作れない」ってことわざがあるそうな。
何か新しいことをしたかったら、いま待ってる何かを壊さなきゃいけないんだってこと。

・非日常を求めること。そういう生き方について。

・「芸一筋」って言うんでも「継続は力なり」っていうんでもないかもしれないけど、選びとった道は持てる力を全て注いできたと。


いままでの自分の経験とか生き方を書いてる短い記事なんだけど、すごく共感したのです。出会った非日常を捉えずにいられないというか、気づいたら飛び込んでしまっているような。あたしもそんな生き方に共感したのです。

私はいまはいろいろためらってしまうし、経済力もないし、周りに心配をかけるだけなのだけど、人生の選択のあり方として、こうありたい!と思う。

何か一つこれってものが欲しいとも思う。けど、そうじゃないあり方も可能なのかもって思えた。本当に全力で取り組めるなら。

自分が選択した道を正しいとか間違いだったとか決めつけるのは自分で、もし失敗だったなって思ってもそれからどうするかがもっと大事なわけで。


それから今日のセーブザチルドレン海外事業部マネージャーの越川さんの言葉で

・やっても見ないこと考えても分からないじゃない

って。そりゃそうなんだよね。やってみて違かったってなるかもしれない。けど、違ったってことだってやってみなきゃ分からないこと。当たり前だけど、結局理由って後から付いてくるものなのかな。

「時間って思ってる以上に短いよ」
ってこの夏に何人かに言われた。だから、やりたくないことやってる暇はないんだよ。時には我慢ってのも大事だけど。もちろん、そんなに焦らず(別にせかせかしたいわけじゃないけど)、リスクだらけの中に飛び込んで行かなくっても楽しい人生はいっぱいあるだろうけど、私が魅力を感じるのは非日常に飛び込んでく生き方かな、と今は思う。

恋愛には安定を求めるとか言ってるんですけどね(笑)
結婚したら安定求めちゃうかもですがね(笑)

とりあえずいまは、そんなビジョンなわけで。

というわけで、いまの私の頭の中はこんな感じで、将来の選択をしていくことになるだろうと思います←結局マイペース

でも大丈夫!今回はあまりに決心できないのでドツボにはまる勢いでしたが、結構固まってきた、と思う!

もっともっと毎日を楽しく生きよう。
幸せに生きよう。
考え方一つ。
感じ方一つ。
全力で。

そんなこんなでAPU生活もあと3ヶ月なんですね。
今からでも遅くないもん。
全力で。
あらゆる機会を使いまくって帰ってやる。

がたがたごとごとでも味のあるmy wayにするんです。
うん。